マルコ 3:7-12

『何を求めるか』

 パリサイ人たちが「なんとかしてイエスを殺そうと相談しはじめた」(6)中、イエス様は、弟子たちを連れてガリラヤ湖畔へと退かれます。しかし、おびただしい群衆がついて来ました。ガリラヤの住民だけでなく、イエス様の評判を聞いて周辺の地域からも大勢集まっています。

 

1.求めるもののすれ違い

 イエス様が退かれたのは、敵対する者たちから離れるだけでなく、いやしを求めてくる人たちからも距離を置くためです。もちろんイエス様は病める人をあわれみ、いやすことのできるお方です。しかし、人々の求めにすべて応えて時間も労力もすべて費やしていたら、イエス様がこの世に来られた目的を果すことはできません。イエス様のなさった奇跡は、神の子救い主であるしるしとして十字架への途上で起ったことです。

 集まってきた人たちはそれぞれ自分の願いを持って来ていますが、イエス様が何を望んでおられるか、何のためにこの世に来られたかは知りません。あえて距離を置かれなければ、人は自分に都合のいいようにイエス様を理解し、自分の願いに利用するだけで終ってしまいます。イエス様によって自分を救おうとするのではなく、イエス様によって自分が救われる、本当の救いを求め、得るようにイエス様は導かれます。

 

2.誘惑を受けられる

 イエス様のもとには、けがれた霊に取り付かれた人たちも来ていました。彼らはイエス様に向かい、「あなたこそ神の子です」と叫びます。しかしイエス様はこの言葉も、きびしく戒めてとどめられました。

 この悪霊の言葉は信仰の告白ではありません。人々にイエ ス様を認めさせるためではなく、イエス様を誘惑する言葉です。イエス様は、働きを始める前に悪魔の誘惑を受けられましたが、それ以降も、ずっと悪魔はイエス様を誘惑し続けます。それは、イエス様に「わたしは神の子である」と宣言させることで、この世の王とならせようとする試みです。また十字架への道をとどめようとする悪魔の抵抗です。もしイエス様がこの誘惑にのってしまったら十字架はなく、この世の権力や富を求める悪魔の仲間となってしまうからです。

 「お前が神の子なら」との誘惑は、十字架に至るまで続きます(マタイ27:40)。しかしイエス様はまことの神の子として、父なる神の御旨だけに従い、全人類の罪のために十字架に命を捨ててくださいました。

 

3.十字架を通して主を知る

 この後イエス様は十二弟子を選ばれます。弟子に求めたのは、「自分の十字架を負って主に従う」ことでした。自分の願いや求めがかなえらえることではなく、神様の御旨に従う生涯です。

 イエス様を信じ従っていくわたしたちも、まわりの人から理解されなかったり、敵対されることもあります。人の求めることに支配されそうになる事もあります。その私わたしちの苦しみや悩みをイエス様は知っておられ、いつも共にいて支え守ってくださっているのです。

 イエス様が弟子たちに命じて用意させた小舟は、貧弱で、わずかな弟子たちしか乗せることはできません。嵐にもまれますが、主が共におられ、目的地に必ず着く舟です。この福音書を手にしたクリスチャンたちは教えられ、励まされ、十字架の救いを感謝し喜びながら主に従ってたのです。