マルコ 3:31-35

『神の家族に』

 イエスを家に連れ戻そうと、母と兄弟たちが来ました。その知らせを聞いたイエス様は群衆に、主イエスを中心とする神の家族の幸いを教えられます。

 

1.家族だから

 イエス様の家族が連れ戻しに来たのは、21節にあったようにイエス様の気が変になったと思ったからです。父ヨセフから大工の仕事を受け継ぎ、家族を養ってきた長男イエスが突然家を出て、神の言葉を語り出し、人をいやす奇跡を行い始めました。家族の人たちだけでなく、小さいときからのイエス様を知っているナザレの人たちも驚き、救い主と信じることができませんでした(6:3)。

 「家族なのだから一緒に住みなさい、長男なのだから一家を支えなさい、母の面倒を見なさい」と義務的にとらえてしまうと、そこには喜びも感謝もありません。神を中心としているといいながら、人間の思いや考えが先に立ってしまいます。

 神様は家族の交わりを祝福されるお方です。神様のみちびきを受け入れる時に、イエス様が真ん中にいて祝福の源となってくださいます。

 

2.家族になる

 ナザレから来た実の家族は、外に立ってイエスを呼ぶだけで、イエス様の言葉を聞きません。イエス様は、すぐそばにいて主の言葉に聞き従おうとする人たちに、「神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」と教えられました。

 聖書の教える家族の原点は、アダムとエバが結ばれるときに「人はその父と母を離れて、妻と結び 合い、一体となる」(創2:24)と主が言われた言葉にあります。

 その人のそばにいることを喜びその声を聞き、その求めに応えていこうとするところに、血のつながりではなく愛によって結ばれる「家族になる」幸いが生れてきます。

 

3.キリストに結ばれる神の家族に

   「神のみこころを行う」とは、ただそれぞれが正しく歩めば良いというのではありません。神様がわたしたちを愛されたように、共にいることを喜び、過ちを犯した者を赦して招き迎え、弱いところを助け支え合っていく働きです。

 その中心にはいつもイエス様がおられます。むしろイエス様が間におられなければ、最初の愛の思いがいつしか義務に変わり、喜びが空しさに沈んでしまいます。

 イエス様は最後に十字架の上から、「ごらんなさい、あなたの子です。・・・あなたの母です」(ヨハネ19:26-27)と、母マリヤを愛弟子ヨハネに託されました。単なる遺言ではなく、十字架の愛をもって結ばれる神の家族を約束された言葉でした。

 パウロもこれらを受けて「十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ」(エペソ2:16)と「神の家族」を説いています。実の家族であれ、教会の交わりであれ、イエス様に結ばれているお互いが、さらに主の御旨によって結ばれ、導き助けられながら「家族となっていく」歩みに進みましょう。