マルコ 3:1-6

『真ん中にある救い』

 主イエス安息日に、片手のなえた人をいやされました。救いの目的があらわれたときですが、敵対者たちの怒りは増しました。

 

1.真ん中とは

 当時、イスラエルの町や村には会堂が設けられていました。人々は安息日に集まり、賛美と祈りを捧げ、聖書の御言を聞きます。神殿ではありませんが、そこも主なる神様を礼拝するところでした。

 しかしイエス様には、主の臨在(共におられ人々を生かすこと)が失われているように見えました。中心に近いところには、自分を正しいとする人が集まり、朗々と聖書を朗読する人、律法を守るように説く人がいました。一方、苦しみや悩みを抱えて神様の救いを求める人が隅に追いやられていたからです。

 体の不自由な人は神殿には入れなかったのですから、会堂には入れただけでもましかもしれません。しかし生活の中にある会堂だからこそ、日々の歩みでも隅においやられていたことが映し出されています。イエス様はこのような人々から疎外されている人をみもとに招き、神様の愛の中においてくださるお方です。

 

2.真ん中への招き

 目立たないように隅にいた人に主イエスは「真ん中にきなさい」と呼びかけられました。私たちも自分の弱さや欠けについて、隠したくなります。しかし神様は旧約でも「さあ、かわいている者はみな水にきたれ」(イザヤ55:1)と呼びかけておられます。イエス様も「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。 あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)と招かれます。不足に悩み、解決を知らないわたしたちを、主はこたえようと招いておられるのです。

 神様はあわれみをもって、私たちの隠してしまう弱いところ、汚いところに近づき救ってくださるお方です。片手のなえた人は、弱さのままで主の招きに応え、主の言葉を信じて手を伸ばしてみました。そこに主のみわざが現れたのです。

 

3.怒りを含まれる主

 安息日に人をいやすことをとがめようと待ち構えている者たちがいることを主は知っておられます。イエス様は「怒りを含んで」彼らを見回し、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と人々に尋ねられました。それは、神様の前に自分を正しいとする人たちが神様のあわれみを知らず、苦しんでいる人たちを遠ざけているからです。片手がなえていることそのものは命に関わらないかもしれません。しかし弱さのために疎外することは、その人の心を殺すことです。

 また、手のなえた人は主の言葉に従う柔らかな心を持っています。しかし敵対する人たちは、命を救うことの方が良いと知りながら、自分たちの正しさにこだわり、主の言葉に従おうとしません。そればかりか怒りをつのらせ、イエスを殺す相談まで始めました。

 主は今もわたしたちを招いておられます。それは十字架にすべての罪の赦しがあり、復活によって永遠の命を与えてくださるからです。主の前に弱さも罪もそのまま持ち出して救いにあずかり、心と生活の真ん中に主をお迎えして歩む人は幸いです。