マルコ 6:1-6

『救いはどこから』

 イエス様はナザレに行かれましたが、郷里の人たちはイエス様につまずきました。その不信仰は驚き怪しまれるほどかたくななものでした。

 

1.ただの人に見えたイエス

 イエス様はナザレに、神の国の福音を伝えるために行かれました。そしてほかの町と同じように、会堂に入って教え始められました。これまでほかの町では、イエス様の権威ある教えや力あるみわざに人々は「この方はだれだろう」と驚きました。しかしナザレの人たちの驚きは、自分たちが幼い時から知っているイエスについて、どこで習ってきたのかなどと驚くだけです。イエス様を人間としてみるだけで、神の子救い主として受け入れることができず、救いを遠ざけてしまいました。

 聖書は「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」(第一コリント12:2)と教えています。人間の感覚や理性だけではイエス様を信じることはできません。これは聖書に対しても同じです。自分で理解できることしか信じないと、イエス様につまずきます。

 

2.ただの人である弟子たち

 イエス様が天に昇られた後、全世界に福音を伝えようとする使徒たちも、「無学な、ただの人」(使徒4:13)と見られていました。しかし、キリストの救いを宣べ伝える大胆さと、人伝えではなくイエス様の後に従ってきた者たちであること、実際に救われている人がいることに、敵対者たちは何の反 論もできませんでした。使徒たちはつまづきを乗り越えてイエス様を信じ、献身していたからです。

 使徒たちも私たちも、ただの人に過ぎません。自分の知恵や力で何かをしようとしたり、人を救おうと思っても何もできません。ただすでに与えられ、内に働いている主の救いとその恵みの力に生かされ、そのままを証ししていく時に、主が私たちを通して救いのみわざを表わし続けてくださいます。

 

3.互いの救いを見る

 教会の交わりは、お互いに見て知っていることだけでなく、「御霊も一つ、・・・主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。・・・父なる神は一つ」(エペソ4:4-6)と表わされる「聖霊による一致」に結ばれています。

 そしてキリストの救いを宣べ伝える働きも、「どこで習ってきたのか」には「私がイエス様を信じ救われたそのままにです」、「授かった知恵は」「神様の言葉を聖霊の助けと導きによってお伝えしています」、「力あるわざ」も「神様がその恵みと力をあらわし、キリストを主と信じるように御旨によってなされています」と答えることができます。

 長血をわずらっていた女性の「み衣にでもさわれば」というわずかな信仰でも、主の救いは現れました。しかし、イエス様の内に神様の救いを見ないナザレの人たちには、何も答えられることはありませんでした。自分でも人でも世の中でもなく、ただ主を頼り信じて、救いのみわざを拝しましょう。