マルコ 6:30-44

『恵みだけが満たす』

 「五千人の給食」と呼ばれるできごとに、人を生かし用いる主の恵みがあふれています。

 

1.祈りの力に帰る

 宣教に遣わされた弟子たちはイエス様のもとに戻ってきて、喜びの報告をします。イエス様は弟子たちを休ませ、祈るために寂しい所へと導かれました。

 困っている時に祈り、順調な時に祈りを忘れやすい私たちですが、主は心と体を休め、人からも離れ、主の前に静まる時が必要であることを教えられます。イエス様も祈りなしに働きを進められることはありませんでした。

 どんなにうまくいっているとしても、それは自分の力ではなく、主の恵みによって用いられていることを忘れないためです。またこの後、自分で進むのではなく主の導きを求め続けていくためです。

 

2.不足の確認

 後を追ってきた群衆をご覧になったイエス様は、本当の人生の導き手や助け手を求めている姿を深くあわれまれ、神様の守りと導きがあることを教えられました。

 夕方になり、弟子たちは群衆を解散させてそれぞれに食べる物を買いに行かせるように、主に言いました。しかし主の答えは「あなたがたの手で食物をやりなさい」、「パンは幾つあるか、見てきなさい」でした。弟子たちが見出したのは五つのパンと二ひきの魚でした。主はこれを手にとって祝福し、弟子たちに渡して群衆に配らせました。するとみんなの者が食べて満腹したのです。この給食も、イエス様の恵みによる救いの一つです。パンを数えさせたのは、自分たちに人を救う力がないことと、全能全備の主に求めなければ何もできないことをおぼえさせるためでした。

 

3.再び主の手に用いられて

 五千人に目が向きがちですが、もともとは空腹の弟子たちを休ませるための移動でした。伝道の成功を喜ぶ弟子たちですが、主とその恵みだけを頼りに始めた働きが、いつの間にか自分の力や過去の経験に頼るものとなっていないか、働きを止められることによって気づかされます。

 五千人を前に、わずか五つのパンでは何もできないと思いますが、宣教に遣わされる前の自分たちもそれ以上に不安や恐れを抱いていました。しかし何も持たない自分を主の手に委ね、御言葉に従って進んだ時に、主が多くの人の魂の必要に応え、主がわたしのことをおぼえ、いつも共にいて守り導いてくださっている恵みに満たしてくださったのです。

 組に分けられて座り、弟子たちの手によって主からの恵みを分かち合っていく群衆は、教会の姿です。今も主は小さなわたしたちをその手に祝福し、恵みの器として用いてくださることに感謝しましょう。