マルコ 6:30-44

『恵みだけが満たす』

 「五千人の給食」と呼ばれるできごとに、人を生かし用いる主の恵みがあふれています。

 

1.祈りの力に帰る

 宣教に遣わされた弟子たちはイエス様のもとに戻ってきて、喜びの報告をします。イエス様は弟子たちを休ませ、祈るために寂しい所へと導かれました。

 困っている時に祈り、順調な時に祈りを忘れやすい私たちですが、主は心と体を休め、人からも離れ、主の前に静まる時が必要であることを教えられます。イエス様も祈りなしに働きを進められることはありませんでした。

 どんなにうまくいっているとしても、それは自分の力ではなく、主の恵みによって用いられていることを忘れないためです。またこの後、自分で進むのではなく主の導きを求め続けていくためです。

 

2.不足の確認

 後を追ってきた群衆をご覧になったイエス様は、本当の人生の導き手や助け手を求めている姿を深くあわれまれ、神様の守りと導きがあることを教えられました。

 夕方になり、弟子たちは群衆を解散させてそれぞれに食べる物を買いに行かせるように、主に言いました。しかし主の答えは「あなたがたの手で食物をやりなさい」、「パンは幾つあるか、見てきなさい」でした。弟子たちが見出したのは五つのパンと二ひきの魚でした。主はこれを手にとって祝福し、弟子たちに渡して群衆に配らせました。するとみんなの者が食べて満腹したのです。この給食も、イエス様の恵みによる救いの一つです。パンを数えさせたのは、自分たちに人を救う力がないことと、全能全備の主に求めなければ何もできないことをおぼえさせるためでした。

 

3.再び主の手に用いられて

 五千人に目が向きがちですが、もともとは空腹の弟子たちを休ませるための移動でした。伝道の成功を喜ぶ弟子たちですが、主とその恵みだけを頼りに始めた働きが、いつの間にか自分の力や過去の経験に頼るものとなっていないか、働きを止められることによって気づかされます。

 五千人を前に、わずか五つのパンでは何もできないと思いますが、宣教に遣わされる前の自分たちもそれ以上に不安や恐れを抱いていました。しかし何も持たない自分を主の手に委ね、御言葉に従って進んだ時に、主が多くの人の魂の必要に応え、主がわたしのことをおぼえ、いつも共にいて守り導いてくださっている恵みに満たしてくださったのです。

 組に分けられて座り、弟子たちの手によって主からの恵みを分かち合っていく群衆は、教会の姿です。今も主は小さなわたしたちをその手に祝福し、恵みの器として用いてくださることに感謝しましょう。

マルコ 6:14-29

『御言の迫り』

 イエス様の評判を聞いて、ガリラヤの領主であったヘロデ(・アンテパス)にバプテスマのヨハネの言葉がよみがえりました。

 

1.悔い改めさせるため

 ヘロデは異母兄弟ピリポの妻であったヘロデヤとの結婚についてとがめるヨハネを捕えて獄につなぎました。目ざわりな存在でしたが、ヨハネ預言者として敬っており、その言葉を喜んで聞き続けていました。

 ヘロデはおべんちゃらをいったり、人をおとしめる人たちにはあきています。しかしまた罪を裁き責めるだけの言葉は聞きたくありませんでした。そんなヘロデにとって、ヨハネの教えは、自分の知らない「神の国」を見る思いでした。おきては罪を示すだけのきびしい言葉ですが、ヨハネのメッセージは、救い主を指し示していたからです。きびしさの中に、罪が赦される救いをもたらすための愛がヘロデの魂に迫っていました。しかしヨハネの言葉に従いきれない、中途半端なままだったのです。

 

2.人を恐れて

 神のほか何ものも恐れないヨハネに対して、ヘロデは人を恐れました。誕生日の祝いの席で気分を良くし、ヘロデヤの娘(サロメ)に与えた不用意な約束のために、ヨハネを殺してしまいました。

 神の言葉を聞きながら、自分が変えられることをこばみ、持っているものを守ろうとして、救いを 遠ざけてしまう人が、聖書の実話にもたとえにも数々出てきます。また神の遣わした預言者を受け入れずに迫害し殺してきたイスラエルの歴史そのものでもありました。

 罪に縛られて「欲している善は行わず、欲していない悪を行っている」(ローマ7:19)とパウロが記すとおりです。

 

3.神の国に生きる者

 ヨハネの殉教がここに記されているのは、そんなヘロデにも、なお神の言葉が迫っているからです。

 ヘロデはイエス様のことを聞いて「ヨハネがよみがえった」と恐れます。ヨハネを殺しても、罪に責められる恐れは消えず、今度はイエス様によって神の言葉が迫ってきているのです。

 そしてこの時福音を宣べ伝えているイエス様も、やがて十字架に死なれます。しかし主イエスはよみがえられ、弟子たちを通し、聖霊によって福音は語り続けられていきます。ヨハネを殺し、主イエスを殺し、神の言葉と縁を切ったと思っている者にも、なお神様は愛をもって追い続け、救いに招き続けておられるのです。

 主イエスを見て、ヘロデは「ヨハネがよみがえった」と驚きましたが、今は恵みに生かされているクリスチャンの歩みを見て、世の人は「主イエスがよみがえられた」ことを知らされていきます。御言に導かれる幸いに歩みましょう。

 

〔ヘロデの系図の一部〕(◎:子 〇:孫 ◦:ひ孫

 ヘロデ大王(マタ2:1)(10人の妻と多数の子

  ◎アリストブロス(ヘロデ大王により処刑)

   〇ヘロデ・アグリッパ一世(使徒12 ヘロデ大王の領地を回復)

    ◦ヘロデ・アグリッパ二世(使徒25 最後の領主 ユダヤ戦争)

    ◦ベロニケ(妹)(使徒25:13)

    ◦ドルシラ(妹)(使徒24:24 総督フェストの妻)

   〇ヘロデヤ

    ◦サロメ(ヘロデ・ピリポとの娘)

  ◎ヘロデ・ピリポ(ルカ3:1 イッツリヤ・テラコニテの領主)

  ◎ヘロデ・アケラオ (兄 マタイ2:22 ユダヤの領主)

  ◎ヘロデ・アンテパス(弟 マルコ6:14 ガリラヤの領主 ヘロデヤと再婚)

 

マルコ 6:6-13

『人生の杖』

 イエス様は、先にお選びになり、これまで「そばに置いて」御言葉を聞き、みわざを間近に見てきた十二弟子を宣教に遣わされました。

 

1.悔い改めさせるため

 弟子たちはイエス様にならい、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と、神様から離れて自分勝手な罪の中に生きている人に、神のもとに帰ってくるように伝えます。それは罪や悪や死に支配された人たちを、恵みによって治められる神の国に招くためです。

 イエス様がこれまで弟子たちの前で奇跡をなされたのは、この神の国を見せるためです。やがて弟子たちは「ナザレ人イエス・キリストの名によって」(使徒3:6)悪霊を追い出し、病をいやしました。十字架に死んだイエス様がよみがえって今も生きておられる救い主であることを宣言し、信じる者をイエス様に結びつけるためです。神様の救いが現実にあるからこそ、伝えることができるのです。

 

2.人の弱さを知る主

 福音書でも使徒行伝でも、使徒たちは二人ずつ遣わされます。神様は人を孤独に造らず、また置かれません。救われた者は神の民の一員となり、交わりの中で養い育てられます。また共に祈り合い、支え合う交わりの中から救いが広がっていきます。わたしたちに慰めや励まし、時には注意や助言が必要なことを、主はよく知っておられるのです。  

 また主は、一軒の家で歓迎されたら、次の村に移るまではその家にとどまるように命じられます。もっと立派な家や、歓待してくれるところがあってもです。神様の導きに従い、自分の思いや判断で動かないためです。あるいは拒絶する村には、抗議のしるしをあらわすように命じられました。「足の裏のちりを払い落とす」のは、関りも責任もわたしは負いませんという意志表示です(ルツ4:7)。イエス様でも先に故郷のナザレで受け入れられませんでした。今も伝道者の心得として「伝えるのは伝道者の責任、信じるかどうかは神様の責任」と教えられています。

 

3.神の国に生きる者

 イエス様は弟子たちの持ち物について、杖一本の他に何も持つなと命じられます。それは主の救いは、何かを持っているから、また持っていないから宣べ伝えることができるというものではないからです。また、神の国に生きている者でなければ神の国を伝え、招くことができないからです。

 一本の杖は、野獣やへびから身を守ります。一枚の下着(当時の庶民がふだん身にまとっていた布)は最小限の装いです。預言者ではないのですから皮衣を着ることもありません。変に人目をひく必要もなく、ただ主イエスを伝えるためです。

 弟子たちの派遣は、主イエスの復活昇天、そして聖霊降臨後に本格的に始まります。弟子たちはイエス様が十字架の死に至るまで、ただ父なる神様への信仰一本で歩まれた姿を見ました。そして復活の主が共に働いてくださる確信と力を受けて、全世界への福音宣教がはじまりました。わたしたちにもその救いが届けられたことを感謝し証ししましょう。

マルコ 6:1-6

『救いはどこから』

 イエス様はナザレに行かれましたが、郷里の人たちはイエス様につまずきました。その不信仰は驚き怪しまれるほどかたくななものでした。

 

1.ただの人に見えたイエス

 イエス様はナザレに、神の国の福音を伝えるために行かれました。そしてほかの町と同じように、会堂に入って教え始められました。これまでほかの町では、イエス様の権威ある教えや力あるみわざに人々は「この方はだれだろう」と驚きました。しかしナザレの人たちの驚きは、自分たちが幼い時から知っているイエスについて、どこで習ってきたのかなどと驚くだけです。イエス様を人間としてみるだけで、神の子救い主として受け入れることができず、救いを遠ざけてしまいました。

 聖書は「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」(第一コリント12:2)と教えています。人間の感覚や理性だけではイエス様を信じることはできません。これは聖書に対しても同じです。自分で理解できることしか信じないと、イエス様につまずきます。

 

2.ただの人である弟子たち

 イエス様が天に昇られた後、全世界に福音を伝えようとする使徒たちも、「無学な、ただの人」(使徒4:13)と見られていました。しかし、キリストの救いを宣べ伝える大胆さと、人伝えではなくイエス様の後に従ってきた者たちであること、実際に救われている人がいることに、敵対者たちは何の反 論もできませんでした。使徒たちはつまづきを乗り越えてイエス様を信じ、献身していたからです。

 使徒たちも私たちも、ただの人に過ぎません。自分の知恵や力で何かをしようとしたり、人を救おうと思っても何もできません。ただすでに与えられ、内に働いている主の救いとその恵みの力に生かされ、そのままを証ししていく時に、主が私たちを通して救いのみわざを表わし続けてくださいます。

 

3.互いの救いを見る

 教会の交わりは、お互いに見て知っていることだけでなく、「御霊も一つ、・・・主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。・・・父なる神は一つ」(エペソ4:4-6)と表わされる「聖霊による一致」に結ばれています。

 そしてキリストの救いを宣べ伝える働きも、「どこで習ってきたのか」には「私がイエス様を信じ救われたそのままにです」、「授かった知恵は」「神様の言葉を聖霊の助けと導きによってお伝えしています」、「力あるわざ」も「神様がその恵みと力をあらわし、キリストを主と信じるように御旨によってなされています」と答えることができます。

 長血をわずらっていた女性の「み衣にでもさわれば」というわずかな信仰でも、主の救いは現れました。しかし、イエス様の内に神様の救いを見ないナザレの人たちには、何も答えられることはありませんでした。自分でも人でも世の中でもなく、ただ主を頼り信じて、救いのみわざを拝しましょう。

マルコ 5:21-34

『キリストが主』

                            
 イエス様の与えられた二つのいやしが一連のこととして記されている中に、本当の救いとはどんなに豊かなものかが示されていきます。

 

1.向こう側の人
 イエス様のもとに、いやしを求めて近づいてきたのは、対照的な二人でした。一人は会堂司ヤイロです。会堂司は町や村に設けられていた会堂を管理し、時には礼拝の奉仕にあたります。律法を熱心に守り行い、町の人から尊敬されていました。

 もう一人は長血をわずらい、宗教的に汚れた者とみなされていた女性です。人に触れてはならないと定められていますから、顔を隠すようにしてイエス様に近づきました。

 もしこの女性が会堂に来たら、ヤイロは彼女が入ることをきっと止めたでしょう。当時のユダヤ人の考えで「清い」とされる人と「汚れている」とされる人、それぞれ交わることがないお互いに「向こう側の」二人です。しかしどちらも、イエス様に救いを求め、こたえていただきました。

 イエス様の救いは、わけへだてなく求める人すべてにもたらされていきます。そして互いに自分とは違う人、関りがないと思っている人も、共に主の救いを喜ぶ交わりに加えられていくのです。

 

2.イエス様のまなざしの中で
 ヤイロと女性と、どちらも主の救いを得るためには、「主と向き合う」ことが必要でした。大勢の群衆が集まってきても、イエス様はいつも一人一人と向き合われます。
ヤイロはそれまでイエス様のお話を聞いたり奇跡を見てきましたが、イエス様は遠い存在でした。しかし自分の娘の病によって、初めてイエス様の前にひれ伏して、救いを求めました。人がどうではなく、自分の必要をそのまま主に訴えたのです。
 病いがいやされた女性にも、イエス様は顔と顔を合わせようとされます。この個所を原語で見ると、女性は「なおして(救って)」いただけるだろうと、イエス様にさわります。するとイエス様の内から力が出て、病気は「治り(いやされ)」ました。しかしこれは「いやし」であって、まだ「救い」ではありません。ですからイエス様は彼女の病がいやされたことを知りつつ、「救い」を与えるために、だれがさわったのかと尋ねられました。彼女が自分からイエス様に向き合うことを求められました。

 そして、すべてありのままを申し上げた女性に、「あなたの信仰があなたを救った」と、生涯に及ぶ守りと平安を与えられました。いやしや奇跡が救いなのではなく、主との交わりに生きることが本当の救いだからです。

 このできごとのために、ヤイロの娘はなくなってしまいますが、イエス様は「恐れることはない、ただ信じなさい」と言われます。これも、いやしよりもいやし主と結ばれる本当の救いに導くためでした(新聖歌346)。娘の病のいやしを求めてきたヤイロに、あなた自身はわたしを信じるのか、神様を本当に信じているのかと問いかけられる言葉です。

 

3.キリストが主
 イエス様がヤイロの家に向かう途中で、病の女性と向き合うために足を止められたことにも意味があります。ヤイロの心中は穏やかではなかったでしょうが、救いは神の時に神の方法でなされます。「娘はなくなりました」と知らせが届いた後、救いは主によるということが、よりはっきりしてきました。

 二つのいやしに共通しているのは、私たちが熱心に求めたから、信じたから救われたのではないということです。女性はイエス様にさわったつもりですが、「イエス様が」彼女の病と心に触れてくださったのです。ヤイロはイエス様を娘のところに連れて行こうとしますが、亡くなった知らせの後は、「イエス様が」先に立ってヤイロを救いへと導かれたのです。

 救いは人間の努力ではなく神様のみわざです。神様がどんなにあわれみ深く、いつくしみに満ちておられるかを知って寄り頼み、また最善以外なさらないことを信じて委ねる人は、魂に平安と希望があり、すでに救われているのです。
 キリストが主である生涯は幸いです。ねたみもうらみも除かれて同じ救いを喜び、同じ主を賛美する交わりに生かされます。人の目を恐れず、主のいつくしみのまなざしに支えられます。主のあとに従っていく時に、主の恵みのみわざを拝し、さらに信仰が引き上げられていきます。イエス様を人生の主と仰ぎ従い、感謝と喜びをもって歩んでいきましょう。

 

マルコ 5:1-20

『御言の力』

 

 ここに出てくる、悪霊に取りつかれた人の姿は、あまりにも私たちの日常とはかけ離れているように見えます。しかし、キリストの言葉によって解放され、さらには新しく生かされていく救いを見るときに、私たちも御言によって救われている幸いを知ることができます。

 

1. 人を救う神の言葉
 悪霊は、人を神様から引き離し、自由を奪います。また、この人が町に住めなくなったように、まわりの人との関わりをねじまげ、こわしていきます。そして、自分の身を傷つけていたように、最後は豚が溺れ死んだように、最後には滅ぼそうとするものです。
 イエス様の姿を見たとき、この人は悪霊に縛られながらも、心の中に何とか救われたいという願いがあったからでしょう。傷だらけで裸のまま、この人は、イエス様に近づきました。主は「けがれた霊よ、この人から出て行け」と命じられ、悪霊からの救いが与えられます。イエス様の言葉には嵐を静める力もあり、悪霊さえもその力を失わせる権威がありました。
 イエス様は、私たちを救うために来られました。健康な人ではなく、病人を癒すため、ひとりの罪人を救うために来られた方です。この悪霊につかれた人が、身を隠さず、自分をさらけ出していった、そこに救いのことばが働きました。  

 

2. 人を探る神の言葉
 この出来事を聞いて集まってきた人たちは、この人の救いを喜ぶどころか、主イエスを追い返そうとしました。イエス様に対して悪霊は「かまわないでくれ」と叫びましたが、この集まってきた人たちからも同じ声が聞こえてきます。
 キリストの良いわざや救いの働きを喜ぶよりも、自分たちの生活が乱されることを恐れ、神様を求めながらも、心の奥底まで立ち入ってもらいたくない身勝手な信仰心を、多くの人は持っています。実はこれも巧妙な悪霊の働きです。表には現れませんが、神様に本当には心を向けないように、最後はやはり滅びに至らせようとしているのです。
 一人の人が救われたことを共に喜び、自分もまた救われたいと願って神の言葉に心を開くならば、どんな困難からでも救われます。自分で気がつかずに縛られていたものから解放され、喜びをもって歩むことができます。しかし、自分が縛られていることさえも気づかず、心を閉ざすならば、それは滅びに向っているわたしたちを何とか救いたいと願っておられる、神様の愛の手を退けているのです。
  
3. 人を生かす神の言葉
 いやされ、主のお供をしたいと願い出る人に、イエス様は「自分の家に帰り、主のなしてくださった救いを証ししなさい」と命じられました。
 解放され、自由と喜びにあふれたこの人は、イエス様についていって新しい自分、新しい世界を見たいと思ったかもしれません。しかし、キリストによって生まれ変わったならば、もとの家、もとの町であっても、そこは神様が共にいてくださる新しい世界なのです。帰るのではなく、主から遣わされているのであり、どうしようもなかった自分を救ってくれた神様の言葉はそこにも届いているのです。
 主の後に従うのも、それぞれのところに遣わされるのも、主の導きのままに従い、神の言葉を携えて、どこにあっても自分に与えられたキリストの救いを証ししましょう。イエス様はいつも共にいてくださり、わたしたちを、またまわりの方々を生かしてくださいます。

マルコ 4:35-41

『天と地の主』
 主イエスの復活は最大の驚きですが、弟子たちはそれまでも主のみわざに何度も驚いています。

 

1.驚きの波紋
 イエス様の働きが始まると、人々はその権威ある教えに(1:22)、悪霊を従える力に(28)、病をいやす力に(2:12)驚きました。そしてそのうわさが広まって、おおぜいの人が集まってきました。しかし波紋は、固い岸にあたるとはねかえってきます。一方では、イエス様のみわざに対して、驚きを超えて恐れをいだくようになったり、イエスをきらい憎み、ついには殺そうとたくらむ者まで起ってきます。悩みや心配事はあっても、今の生活を変えること、変えられることを喜ばないのが人の心です。
 またユダヤ人は自分たちを信心深いと思っており、遠い先祖に奇跡をもって神様の救いがもたらされたことを学んでいますが、遠い昔話のようであり、自分の身に起るとは思っていませんでした。

 

2.この方はだれだろう 

 弟子たちは、嵐を静められたイエス様を見て「いったい、この方はだれだろう」と言っています。これまでイエス様は、神の国について人々にはたとえで話されましたが、弟子たちには「ひそかにすべてのことを解き明かされ」ました(4:34)。つまり弟子たちは、ただイエス様のみわざを見るだけではなく、その御言を聞き続けることによって、救いの出来事よりも救い主を求める者へと変えられ始めていました。

 しばらくしてイエス様は弟子たちに、「あなたがたはわたしをだれと言うか」とお尋ねになります(8:29)。ペテロは代表して「あなたこそキリストです」と告白しました。弟子たちはイエス様をまことの神であり、救い主であると信じることができました。そしてイエス様から苦難と十字架、復活の予告を聞きます。ただ信仰があっても未熟な弟子たちは、その予告を受け入れることができませんでした。

 イエス様が実際に捕えられ、十字架につけられて殺され、葬られる間、弟子たちの心は激しい嵐の中を通らされました。それはもう一度イエス様はだれなのか、自分はどんな存在なのかを問われるときでした。

 

3.天地を造られた主を信じて

 主イエスはよみがえられ、弟子たちに平安と喜びをもたらされます。また聖霊がくだり、弟子たちはキリストの福音を広め始めました。その福音は、どんな人生の嵐に出会っても、天と地を造られたお方に静められない嵐はないことを教え、その主の導きに従っていくときに平安があり、希望があるメッセージです。

 弟子たちがここで経験したのは、まず、主の導きに従っていっても嵐があり得ることです。イエス様は十字架につけられる前の晩に「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16:33)と弟子たちに告げられました。使徒パウロも「わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない」(使徒14:22)と苦難を予告しています。

 また、弟子たちは、嵐の中でも眠っておられるイエス様の姿に「まどろむこともなく眠ることもない」(詩121:4)神様の守りに委ねる平安を学ぶことができました。

 群衆はイエス様のみわざを見て驚いてから信じようとしますが、それは本当の信仰でありませんでした。イエス様が弟子たちに「どうして信仰がないのか」と問われるのは、御利益主義ではなく、主との信頼関係が、目に見えなくても御言葉をもって助け励まし。心に平安と希望を満たし続けてくださる主との交わりに生きる者となってほしいという思いです。わたしたちもこれからも主の救いのみわざに驚かせていただき、なお主に信頼して歩む者とならせていただきましょう。

マルコ 4:21-34

神の国とは』

 イエス様は御言によって建てられていく神の国を、これもたとえをもって教えられます。

 

1.人は知らない御言の力

 人は種を蒔き、水をやり世話をしますが、種が芽を出して成長することについては、なぜそうなるのか知りません。科学は、どのようになっているのか現象は説明しますが、その理由や目的に触れることはありません。

 種が育つのは、種そのものの中に命があり、育つ力があるからです。神の言葉も「生きていて、力があり」(ヘブル4:12)ます。つまり、神の国の収穫、つまり罪と滅びの中にいた人間に命が与えられ、愛に満ちた実を結ぶ生涯を送ることができるのは、御言の力です。御言そのもののうちにある命と力がわたしたちに実を結ばせるのであって、決して人の力ではありません。

  主は、神の国は人間の熱意や努力で実現するものではないことをはっきりおっしゃられます。「何ゆえ御み神は かかる身をも 神の子とせしか 知るを得ねど」(新聖歌357)と歌います。むしろ「知らない」ことを「知らない」とし、すべてを知っておられるお方がわたしのことを知ってくださっていると信頼しお任せする方が、神の国に生き、そこで豊かな祝福を受けるために大事なことです。

 

2.人には見えない御言

 「からし種」は、地面に落ちるとどこにあるかわからないほど小さな種です。しかし、そこらにある砂粒と違うのは、その内にある命がやがて芽生えて大きく育っていくことです。日々の忙しさの中で神様の御言を忘れてしまうことがあります。一度読んだときにはなんとも思わずに読み過ごしてしまった聖書の言が、何か のときに深い神様からの語りかけとして聞こえてくることがあります。

 神様の御言は、ゆっくりであったり、隠れているように見えても、必ず実現していきます。そして御言に生かされる教会も、世に隠れているようなほんのわずかな人数から始まり、今では全世界に広がっています。またキリスト者が、社会の陰となっているところでなしてきた隠れた働きによって、医療や看護、福祉、教育など世界の歴史の中に良い影響を与えてきました。これらは人間の計画ではなく、御言を聞いて受け入れ、信じて従い続けてきた人たちを用いて、神様のご計画が着実に実現してきたことです。

 これらの原点がイエス様の十字架です。イエス様の十字架の死は、からし種のように人間の目には無力に見え、世の歴史からは消されたように見えました。しかし十字架と復活によって、罪と死から救い、生き生きとした命を与える神様の救いがもたらされました。

 

3.神の国での成長

 イエス様は、人々の聞く力に応じて、たとえで御言葉を語られ、弟子たちには説明されました。わたしたちも神様の御言に養われ、豊かな人生の収穫を得たいと願うなら、イエス様の弟子となることです。弟子たちがイエス様のそばにいてその話を聞き続けたように、まず御言を聞くことです。また、弟子たちがイエス様の言葉どおりに生活し、遣わされて行ったように、身の回りで御言を当てはめてみると、御言そのものに命があり力があることがわかります。

  どういうふうにかは知らない、しかし、イエス様がわたしを救ってくださった。神様がわたしを守ってくださった。御言がわたしを神の子として成長させてくださり、結実を信じる者としてくださった。この恵みを知る者となりましょう。

マルコ 4:1-20

『結実を信じて』

 イエス様は、神の恵みの世界を身近なたとえ話を用いて教えられました。

 

1.種を蒔き続けるイエス

 種まきのまいた種が、道ばたや石地、いばらの中に落ちていくというのは、私たちには想像がつきません。土地を選んで耕し、石や雑草を除いていきます。しかしイエス様の時代には、おおよその見当で種をばらまき、落ちたあたりを耕して水をやるということが普通だったようです。このお話し通り、道ばたや石地、いばらの中にも種は落ちていきました。

 まいた種の中には無駄になるものもあります。しかし無駄になることを恐れていたら種をまくことはできず、当然収穫もありません。種まきは収穫を期待して種をまき続けなければなりませんでした。

 この「種をまく人」とは、まずイエス様ご自身のことです。イエス様は「御言」の種をまき続けられました。福音書を読んでいくと、イエス様の教えを聞いたり、病気を治してもらった人は大勢います。しかし、従い続ける人は多くありません。最後にはほとんどいなくなりました。でもイエス様が語り続けた神の言によって救われた人、従う人、喜びを証しする人が人数は少なくても起されて、今、世界にキリストの救いが広げられています。

 

2.耕されるとき

 四種類の土地は、イエス様の御言を聞いた人たちの受け止め方をあらわしています。

 せっかく救いの言葉を聞いても、道ばたの固い土のように、はねかえす人がいます。「わたしには関係ありません」「必要ありません」「自分の信ずるものがありますから」と、耳をかたむけることさえ拒みます。

 また、聞くには聞いてもしっかりと聞かず、表面的な興味だけで終る人もいます。慰めの言葉や励ましの言葉、聞き心地のよい言葉は喜んで聞きます。でも自分の思い願いに合わないことを聞かされたり、改めた方が良いことなどを指摘されると、たちまち耳をふさぎ、背を向けてしまいます。柔らかく見えても内側に固いものを持ったままで、本質的には自分を変えようとはしません。御言葉に従うことで、今までの生き方ややり方が難しくなるのなら、御言から離れる方を選ぶ人です。

 あるいは、御言を一度は受け入れたようでも、人を気にしたり、他の楽しいことに心を奪われたりして、途中で終ってしまうこともあります。外からの困難や迫害ではなく、心の中で起る争いで自分の欲に負けてしまう人です。

 そんな中、素直に神の言葉を聞き、受け入れて従う人は豊かな人生の祝福をいただくことができる と主イエスは約束されました。

 しかしこの四種類の土地のたとえは、自分で自分の心を柔らかくし、汚い思いや行いを取り去り、自分の欲に打ち勝ってからイエス様のもとに行き、御言を聞きなさいということではありません。実際、イエス様の弟子たちも、はじめは道ばたや石地やいばらの生えたような心でした。弟子たちはイエス様のそばに従い、御言を聞き続けることによって少しずつ頑なな心が砕かれ、石やいばらが除かれていきました。また、試錬に会うことによって耕される経験をしていきました。

 福音書が証ししているのは、自分たちは良い地だったから救われた、ではありません。自分たちもイエス様に救われ、変えられてきたことを弟子たちの体験談として記し、すべての人への福音として宣べ伝えています。

 

3.いのちの言を握って

 耕された土地が、実を豊かに結ぶためにできることは、種をしっかりと持ち続けることです。日本では、形を整えることが評価されがちですが、畑がよく耕され、石ころも雑草もなく、うねが整えられていても、種がそこにまかれていなければ何にもなりません。しかし少々乱雑でも種がまかれ、世話がなされていると、やがて実が結ばれてきます。土地にいのちはなくても、いのちのある種が土地を生かし用いて、豊かな実りを与えてくれるのです。

 わたしたちも思いがけないことが起きると、心の奥底にあるものが出てきて耕されるような経験をすることがあります。その時に、神のいのちの言をいただいていると、その言によって希望が与えられ、よりよい歩みに導かれます。そしていのちの言に生かされるとき、わたしたちの生涯が祝福されるだけでなく、その祝福が周囲に広がり、何十倍もの実りとなるのです。

 イエス様は今も、聖書を通してわたしたちの心と生活に、御言の種をまき続けてくださっています。神の言葉を豊かに宿らせましょう。

マルコ 3:31-35

『神の家族に』

 イエスを家に連れ戻そうと、母と兄弟たちが来ました。その知らせを聞いたイエス様は群衆に、主イエスを中心とする神の家族の幸いを教えられます。

 

1.家族だから

 イエス様の家族が連れ戻しに来たのは、21節にあったようにイエス様の気が変になったと思ったからです。父ヨセフから大工の仕事を受け継ぎ、家族を養ってきた長男イエスが突然家を出て、神の言葉を語り出し、人をいやす奇跡を行い始めました。家族の人たちだけでなく、小さいときからのイエス様を知っているナザレの人たちも驚き、救い主と信じることができませんでした(6:3)。

 「家族なのだから一緒に住みなさい、長男なのだから一家を支えなさい、母の面倒を見なさい」と義務的にとらえてしまうと、そこには喜びも感謝もありません。神を中心としているといいながら、人間の思いや考えが先に立ってしまいます。

 神様は家族の交わりを祝福されるお方です。神様のみちびきを受け入れる時に、イエス様が真ん中にいて祝福の源となってくださいます。

 

2.家族になる

 ナザレから来た実の家族は、外に立ってイエスを呼ぶだけで、イエス様の言葉を聞きません。イエス様は、すぐそばにいて主の言葉に聞き従おうとする人たちに、「神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」と教えられました。

 聖書の教える家族の原点は、アダムとエバが結ばれるときに「人はその父と母を離れて、妻と結び 合い、一体となる」(創2:24)と主が言われた言葉にあります。

 その人のそばにいることを喜びその声を聞き、その求めに応えていこうとするところに、血のつながりではなく愛によって結ばれる「家族になる」幸いが生れてきます。

 

3.キリストに結ばれる神の家族に

   「神のみこころを行う」とは、ただそれぞれが正しく歩めば良いというのではありません。神様がわたしたちを愛されたように、共にいることを喜び、過ちを犯した者を赦して招き迎え、弱いところを助け支え合っていく働きです。

 その中心にはいつもイエス様がおられます。むしろイエス様が間におられなければ、最初の愛の思いがいつしか義務に変わり、喜びが空しさに沈んでしまいます。

 イエス様は最後に十字架の上から、「ごらんなさい、あなたの子です。・・・あなたの母です」(ヨハネ19:26-27)と、母マリヤを愛弟子ヨハネに託されました。単なる遺言ではなく、十字架の愛をもって結ばれる神の家族を約束された言葉でした。

 パウロもこれらを受けて「十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ」(エペソ2:16)と「神の家族」を説いています。実の家族であれ、教会の交わりであれ、イエス様に結ばれているお互いが、さらに主の御旨によって結ばれ、導き助けられながら「家族となっていく」歩みに進みましょう。