マルコ 1:29-45

『福音の結実』


  イエス様が最初に救いの手を伸べられたのは、ペテロのしゅうとめでした。しゅうとめの熱病がいやされ、イエス様と弟子たちをもてなすのは、その後のイエス様のお働きや、教会の姿を集約しています。


1.安息を与えるため
 この出来事は安息日に起りました。後にイエス様が有名になると、敵対する者たちは、安息日にいやすことについて非難するようになります。この時も、人々がイエス様のもとに「病人や悪霊につかれた者」を連れてきたのは「夕暮になり日が沈むと」、すなわち安息日が終ってからでした。

 しかしイエス様の救いのみわざは安息日規定にとらわれません。「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」(2:27)からです。同じ安息日にイエス様が会堂で汚れた霊を追い出されたのも、「神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうため」(Ⅰヨハネ3:8)、人に魂の安息を与えるためでした。

 

2.自ら近づいて

 イエス様はしゅうとめに近寄り、その手を取って起されました。教師が病人に自ら近づくことも女性に触れることも、当時は考えられないことでした。病気によっては、触れた人も「汚れた者」とされることがあります。女性に触れることも同様でした。

 この後、重い皮膚病の人がイエス様に救いを求め、イエス様はここでも手を伸ばしてさわり、いやされました。彼は口止めされますが言い広め、結果的にイエス様は「汚れた者」とされて、しばらく町に入ることができなくなるようなことも起ってきます。

 それでもイエス様は、「神の国は近づいた」と宣言し、私たちに近づき救ってくださるお方です。弟子も志願してなるのが普通ですが、イエス様は自ら招かれました。私たちが悩みや苦しみ、悲しみをイエス様に訴えるとき、イエス様は近づいて救ってくださいます。  このイエス様を信じ、一切を捨てて主に従った弟子たちは「主イエスを信じなさい。そうしたら、 あなたも家族も救われます」(使徒16:31)を証しすることができました。人の思いや常識を超えて主に従うことが家族の救いに近づくことでした。

 

3.互に仕える奉仕者

 この時イエス様は「ヤコブヨハネとを連れて」シモンとアンデレの家に入って行かれました。それぞれ漁師の兄弟ですが、ヤコブヨハネはボアネルゲ(雷の子)とあだ名される兄弟です(3:17)。あるいはペテロたちと漁師仲間以上のつきあいはなかったかもしれませんが、シモンとアンデレの家と、主イエスの弟子としての交わりが生れています。

 そしていやされたしゅうとめは、イエス様だけでなく、弟子たちももてなします。これは「ディアコニア」と言う語で、「食卓のこと」と「御言のご用」(使徒6:2,4)のように、教会で広く「奉仕」「仕える」を意味する言葉として用いられます。

  主イエスに救われ、神の家族とされた者に、この世の区別や分け隔てはありません。また主に仕えるように互に仕え合います。

 イエス様はこのように、はじめから福音の全体像をもって宣教されました。わたしたちもイエス様に救われて平安を得、互に愛し仕え合う教会を建て上げていきましょう。主が救いのわざをなし続けてくださいます。