マルコ 2:13-17

『キリストの招き』

 イエス様は救いを必要とする人を知り、招いておられます。

 

1.神の言葉との出会い

 「イエス様に従う」とは、仕事も家族も置いて従うことです。なぜレビが決心したのかくわしくはわかりません。むしろ理由を書かないことによって、だれでも主の招きに従う決心が起こりえることを示しています。

 多くの人が悩みを持ち、不満を抱いています。でもなかなか変えることができません。いつまでも、この世の価値観や自分の感情、都合に振り回されるままです。

 この場面の中心は、レビの悩みや願いではなく、イエス様の御言がどんな大きな事をしたかです。わたしたちを生まれ変わらせることができるのは、イエス様の言葉です。救われたい、変えたいと思っていたレビの心をキリストの言葉が動かし、レビは立ち上がってイエス様に従いました。

  この「立ち上がる」という言葉は、十字架に死んだ主イエスが「よみがえって」(16:9)と同じ言葉です。生きる目的も喜びも失っていた死んだ魂に、イエス様の御言によって命が吹き込まれたのです。死から立ち上がられたイエス様が招かれた言葉だからこそ、レビを古い生活から立ち上がらせることができるのです。

 

 2.罪人への招き

 レビの家で他の取税人や罪人たちと食事を共にしている主イエスを、パリサイ派の律法学者たちは非難します。しかし、イエス様は「わたしは罪人を招くために来た」と答えられます。食事に招かれているのはイエス様ですが、救いに招いておられるのもイエス様です。「こんな人たちが大ぜいいて、イエスに従ってきた」と記されるように、彼らは主イエスが受け入れておられる仲間でした。

 イエス様から見れば、取税人も罪人も、律法学者たちも、先ほどまで大勢集まっていて今は成り行きを黙ってみている群衆も、みな神様から遠く離れて、生きた交わりを失ってしまっている存在です。

 イエス様が「招く」と言われるのは、わたしたちに自分で努力して良くなりなさい、帰ってきなさいと言われるのではありません。イエス様のほうから低いところに、汚いところに来てくださって、手を差し伸べてこれから一緒に生きようと呼びかけてくださっているのです。レビや他の弟子たちは、この呼びかけに応じて心を開き、イエス様を迎え入れました。そして主に愛され生かされる新しい歩みに踏み出したのです。

 救われたいと願うわたしたちを主は今も招いておられます。主の言葉に従って神様の愛とキリストの救いの豊かさを知り、恵みの中に歩ませていただきましょう。