マルコ 5:21-34

『キリストが主』

                            
 イエス様の与えられた二つのいやしが一連のこととして記されている中に、本当の救いとはどんなに豊かなものかが示されていきます。

 

1.向こう側の人
 イエス様のもとに、いやしを求めて近づいてきたのは、対照的な二人でした。一人は会堂司ヤイロです。会堂司は町や村に設けられていた会堂を管理し、時には礼拝の奉仕にあたります。律法を熱心に守り行い、町の人から尊敬されていました。

 もう一人は長血をわずらい、宗教的に汚れた者とみなされていた女性です。人に触れてはならないと定められていますから、顔を隠すようにしてイエス様に近づきました。

 もしこの女性が会堂に来たら、ヤイロは彼女が入ることをきっと止めたでしょう。当時のユダヤ人の考えで「清い」とされる人と「汚れている」とされる人、それぞれ交わることがないお互いに「向こう側の」二人です。しかしどちらも、イエス様に救いを求め、こたえていただきました。

 イエス様の救いは、わけへだてなく求める人すべてにもたらされていきます。そして互いに自分とは違う人、関りがないと思っている人も、共に主の救いを喜ぶ交わりに加えられていくのです。

 

2.イエス様のまなざしの中で
 ヤイロと女性と、どちらも主の救いを得るためには、「主と向き合う」ことが必要でした。大勢の群衆が集まってきても、イエス様はいつも一人一人と向き合われます。
ヤイロはそれまでイエス様のお話を聞いたり奇跡を見てきましたが、イエス様は遠い存在でした。しかし自分の娘の病によって、初めてイエス様の前にひれ伏して、救いを求めました。人がどうではなく、自分の必要をそのまま主に訴えたのです。
 病いがいやされた女性にも、イエス様は顔と顔を合わせようとされます。この個所を原語で見ると、女性は「なおして(救って)」いただけるだろうと、イエス様にさわります。するとイエス様の内から力が出て、病気は「治り(いやされ)」ました。しかしこれは「いやし」であって、まだ「救い」ではありません。ですからイエス様は彼女の病がいやされたことを知りつつ、「救い」を与えるために、だれがさわったのかと尋ねられました。彼女が自分からイエス様に向き合うことを求められました。

 そして、すべてありのままを申し上げた女性に、「あなたの信仰があなたを救った」と、生涯に及ぶ守りと平安を与えられました。いやしや奇跡が救いなのではなく、主との交わりに生きることが本当の救いだからです。

 このできごとのために、ヤイロの娘はなくなってしまいますが、イエス様は「恐れることはない、ただ信じなさい」と言われます。これも、いやしよりもいやし主と結ばれる本当の救いに導くためでした(新聖歌346)。娘の病のいやしを求めてきたヤイロに、あなた自身はわたしを信じるのか、神様を本当に信じているのかと問いかけられる言葉です。

 

3.キリストが主
 イエス様がヤイロの家に向かう途中で、病の女性と向き合うために足を止められたことにも意味があります。ヤイロの心中は穏やかではなかったでしょうが、救いは神の時に神の方法でなされます。「娘はなくなりました」と知らせが届いた後、救いは主によるということが、よりはっきりしてきました。

 二つのいやしに共通しているのは、私たちが熱心に求めたから、信じたから救われたのではないということです。女性はイエス様にさわったつもりですが、「イエス様が」彼女の病と心に触れてくださったのです。ヤイロはイエス様を娘のところに連れて行こうとしますが、亡くなった知らせの後は、「イエス様が」先に立ってヤイロを救いへと導かれたのです。

 救いは人間の努力ではなく神様のみわざです。神様がどんなにあわれみ深く、いつくしみに満ちておられるかを知って寄り頼み、また最善以外なさらないことを信じて委ねる人は、魂に平安と希望があり、すでに救われているのです。
 キリストが主である生涯は幸いです。ねたみもうらみも除かれて同じ救いを喜び、同じ主を賛美する交わりに生かされます。人の目を恐れず、主のいつくしみのまなざしに支えられます。主のあとに従っていく時に、主の恵みのみわざを拝し、さらに信仰が引き上げられていきます。イエス様を人生の主と仰ぎ従い、感謝と喜びをもって歩んでいきましょう。