マルコ 6:6-13

『人生の杖』

 イエス様は、先にお選びになり、これまで「そばに置いて」御言葉を聞き、みわざを間近に見てきた十二弟子を宣教に遣わされました。

 

1.悔い改めさせるため

 弟子たちはイエス様にならい、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と、神様から離れて自分勝手な罪の中に生きている人に、神のもとに帰ってくるように伝えます。それは罪や悪や死に支配された人たちを、恵みによって治められる神の国に招くためです。

 イエス様がこれまで弟子たちの前で奇跡をなされたのは、この神の国を見せるためです。やがて弟子たちは「ナザレ人イエス・キリストの名によって」(使徒3:6)悪霊を追い出し、病をいやしました。十字架に死んだイエス様がよみがえって今も生きておられる救い主であることを宣言し、信じる者をイエス様に結びつけるためです。神様の救いが現実にあるからこそ、伝えることができるのです。

 

2.人の弱さを知る主

 福音書でも使徒行伝でも、使徒たちは二人ずつ遣わされます。神様は人を孤独に造らず、また置かれません。救われた者は神の民の一員となり、交わりの中で養い育てられます。また共に祈り合い、支え合う交わりの中から救いが広がっていきます。わたしたちに慰めや励まし、時には注意や助言が必要なことを、主はよく知っておられるのです。  

 また主は、一軒の家で歓迎されたら、次の村に移るまではその家にとどまるように命じられます。もっと立派な家や、歓待してくれるところがあってもです。神様の導きに従い、自分の思いや判断で動かないためです。あるいは拒絶する村には、抗議のしるしをあらわすように命じられました。「足の裏のちりを払い落とす」のは、関りも責任もわたしは負いませんという意志表示です(ルツ4:7)。イエス様でも先に故郷のナザレで受け入れられませんでした。今も伝道者の心得として「伝えるのは伝道者の責任、信じるかどうかは神様の責任」と教えられています。

 

3.神の国に生きる者

 イエス様は弟子たちの持ち物について、杖一本の他に何も持つなと命じられます。それは主の救いは、何かを持っているから、また持っていないから宣べ伝えることができるというものではないからです。また、神の国に生きている者でなければ神の国を伝え、招くことができないからです。

 一本の杖は、野獣やへびから身を守ります。一枚の下着(当時の庶民がふだん身にまとっていた布)は最小限の装いです。預言者ではないのですから皮衣を着ることもありません。変に人目をひく必要もなく、ただ主イエスを伝えるためです。

 弟子たちの派遣は、主イエスの復活昇天、そして聖霊降臨後に本格的に始まります。弟子たちはイエス様が十字架の死に至るまで、ただ父なる神様への信仰一本で歩まれた姿を見ました。そして復活の主が共に働いてくださる確信と力を受けて、全世界への福音宣教がはじまりました。わたしたちにもその救いが届けられたことを感謝し証ししましょう。