マルコ 2:18-22

『新しい皮袋に』
 「神の国が近づいた」今は、花婿が一緒にいる喜びの時であり、恵みがあふれる歩みに進むよう主は導かれます。


1.修行の時ではない
 「断食」のように、努力して我欲に勝とうとしたり、修養しようとする考えがあります。ユダヤ人にとって断食は、本来神の前に静まり祈るときでしたが、ただ律法の義務を果すための習慣となり、苦しむ顔を人に見せて敬虔を装うだけになっていました。

 主イエスは、今は花婿がすでに来て祝宴が始まっている喜びの時であると言われます。神に近づき、神に会うための修行をする必要がなく、神ご自身が近づき、共におられるからです。イエス様は、「苦しみをもって神に近づく」ことを考えていた人たちに、「喜びを与え、苦しみを共にになうために神が近づき、共にいてくださる」ことを身をもってあらわしておられます。わたしたちも救い主が世に来られ、共におられるだけで他に何もなくても喜ぶことができます。

 

2.裂かれた布、破れた皮袋

 古くなって固くなったものと、新しく柔軟なものを継ぎ合わせることはできません。イエス様が来られた時から、律法を守り行って神に近づこうとする苦しみの時代は終わり、悔い改めて福音を信じる者すべてが神様の祝宴に迎えられる恵みの時代が始まりました。主の恵みを受けるためには、掟に縛られる古い生き方を捨てなければならないのです。

 しかしパリサイ人たちは、神様の恵みがわからず、イエス様を批判して自分たちを変えようとしません。主イエスに従う新しい生き方ができず、最後は自分が破られないために、イエス様を吐き出し 捨てました。それが十字架です。

 

3.キリストによる新創造

 パリサイ人たちは主キリストを受け入れないで十字架に捨てました。しかし、神様の与えようとされる新しい恵みは、決してむだになりません。新しい皮袋として、主イエスを信じる者たちを備えておられます。

 聖書の原語では、皮袋の「新しい」は質的な新しさをあらわす別の言葉が用いられています。それは主イエスを信じる者が新しく創造されていることを意味します。

  パリサイ人たちは「なぜ」と3回繰り返し、自分たちの考えと違う主イエスを批判しています。わたしたちも時に、「なぜ」と神様に問いかけることがあるかもしれません。しかし、そこには神様が愛と真実をもって最善に導いてくださる信頼がありますし、主にしかできないみわざへの期待があります。

 わたしたちのために命を捨ててくださった主は、わたしたちを新しく造り変えておられます。自分で自分を広げよう、変えようというのではありません。主を信じることができる、従うことができる、神様のお手伝いができると、すでに主が私たちを信頼しておられるのです。わたしたちを招き、救ってくださる主は、わたしたちを新しい歩みに進ませてくださることができるお方です。主が与えられる新しい恵みへの道として感謝し、主のみわざに期待させていただきましょう。